はじめに / 序章
江戸より前の森と人
江戸の町ができるずっと前から、この土地の人々は木とともに暮らしてきました。ここでは、残された遺跡や記録から、江戸時代より前の森と木と人の関わりをたどります。分かっていることはまだ少なく、この章は特に「調べている途中」の部分が多い章です。
縄文:水の中に残った木と漆
木は土の中ではふつう腐ってしまいますが、水につかった低湿地では、何千年も形をとどめることがあります。東村山市の下宅部(しもやけべ)遺跡は、そうした低湿地の遺跡です。発掘では、漆に関わる資料や木製品など、ふつうなら残らない植物由来の遺物が見つかったことが報告されています。[1][2]
漆に関わる資料と木製品が見つかったことは、縄文の人々が森の木を道具や器に加工し、漆で仕上げる技術を持っていたことをうかがわせます。木を伐り、削り、塗るという営みは、数千年前の東京の地ですでに行われていたとみられます。
古代:武蔵国分寺と七重塔
奈良時代の天平13年(741)、聖武天皇は国ごとに国分寺と国分尼寺を建てるよう命じました。武蔵国の国分寺は、いまの国分寺市に置かれました。寺の敷地は東西8町・南北5町に広がり、9世紀には七重塔が建て直されています。大正11年(1922)に国の史跡に指定されました。[3]
七重塔のような大きな木造建築には、太く長い材が大量に要ります。都が置かれた畿内から遠い武蔵国でこれだけの寺が建ったことは、この地方にも大きな建物を支えるだけの森と木の技術があったことを示すと考えられます。
二段落目は、国分寺の規模から筆者が推し量った見方です。どこの森からどの木を運んだかは、確認できていません。
中世:江戸氏の館から江戸城へ
平安時代の末から鎌倉時代にかけて、いまの皇居のあたりには江戸氏の館がありました。長禄元年(1457)、太田道灌がこの地に江戸城を築きます。道灌が暗殺された後、城は扇谷上杉氏の手を経て、1524年からは後北条氏の支城となりました。天正18年(1590)、後北条氏が滅ぶと徳川家康が入城します。[4]
家康は慶長8年(1603)に幕府を開き、全国の大名を動員して城を大きく広げました。工事が完成したのは寛永13年(1636)、三代家光のときです。[4] この大工事が、江戸の巨大な木材需要の始まりでした(第1章)。
雑木林:燃料と肥料をとる森
武蔵野の雑木林は、人が使うことで保たれてきた森です。かつて地域の人々は、林に落ちた枝葉を集めて肥料にし、およそ20年ごとに木を伐って薪にしていました。林はコナラやクヌギのような落葉樹からなり、伐った株から芽が出て、また林に戻ります。[5]
皇居の二の丸には、消えつつあった武蔵野の景色を伝えるため、1983年から植えられた雑木林があります。[5] 燃料や肥料をとるために人が手入れしてきた林を、今度は景色として残そうとしているわけです。
出典
- 千葉敏朗「東村山市下宅部遺跡の調査 漆関連資料の新発見を中心に」『多摩のあゆみ』116号(2004年) リンク
- 東村山市遺跡調査会『下宅部遺跡』(2006年) リンク
- 文化遺産オンライン「武蔵国分寺跡」 リンク
- コトバンク「江戸城」 リンク
- 観光庁 多言語解説文データベース「二の丸雑木林」 PDF